日本陸軍軍人の八原博通大佐は、沖縄戦で第32軍の高級参謀として作戦を立案・指揮した人物です。
八原大佐が登場する作品として、1971年公開の映画「激動の昭和史ー沖縄決戦」があります。
この作品には、とても印象深いシーンがあります。
沖縄に上陸した米軍への対応方針を決める作戦会議のシーンです。
会議の場では、積極攻勢という大本営の方針に賛同する意見が多数派であり、圧倒的な戦力を誇る米軍に対して「兵の多少に構わず、積極的に攻撃すべきだ」という空気が蔓延していました。
そこで、仲代達矢さん演じる八原大佐はこう言い放つのです。
「違う。兵の多少から事は始まる。」
これこそ、八原大佐の信念がよく伝わる台詞です。
八原大佐は日本陸軍という組織の空気に抗い続けた、徹底した合理主義者だったのです。
その合理主義者も、現場を知らない上層部の介入を退けることはできず、持てる力を全て発揮することはできませんでした。
このように、組織の論理の前に優秀な人材がくすぶり続けるということは、現代の会社でもよく起こっていることです。
そこでこの記事では、組織の中で自分を貫こうとした八原大佐の生き方を、前後編に分けて考察していきたいと思います。
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異端者を排除する組織
デファクト・スタンダードが同調圧力を生む
企業などの組織がイノベーション(革新)を生み出すためには、異端者の力が必要です。
異端者の発想力や行動力が、全く新しいビジネスモデルを生み出すのです。
しかし、そのビジネスが回る仕組みが定着し、成長軌道に乗ると、そのパターンを拡大再生産する方が成果は上がりやすくなります。
イノベーションが成功し定着すると、やがてそれがデファクト・スタンダード(事実上の標準)となっていくのです。
そうなると、「今までのやり方を踏襲しなくてはならない」という同調圧力が生まれます。
そのような組織では、自然と異端者は排除されていきます。
過去の成功体験があることで、未来の選択肢を狭めるという結果になるのです。
銃剣突撃というデファクト・スタンダード
かつての日本陸軍もそうでした。
日本陸軍では、精神力を重視した銃剣突撃戦術というイノベーションが、日清・日露の戦いを通じてデファクト・スタンダードとなっていたのです。
1908年5月の教育総監部発行による「戦法訓練の基本」によると、日本陸軍は将来も物的資源が不足すると考えられるために、基本的には精神訓練が必要であり、戦法はこの攻撃精神に基づいて白兵戦に主眼を置く必要があると述べられています。
銃剣突撃戦術は、日清・日露戦争の後もある程度は有効であり、満州事変や日中戦争などでは一定の成果を挙げていたのです。
そうなると、「銃剣突撃で戦わなくてはならない」という同調圧力が生まれてくるのです。
中央から疎まれる八原大佐
この同調圧力に逆らったのが、八原大佐でした。
八原大佐は陸軍士官学校出身で、陸軍大学にも24歳と全校生中最年少で入学しています。
成績順位も5位で卒業し、恩賜の軍刀を拝領するという超エリートです。
八原大佐は1933年にアメリカへ留学し、その工業力を目の当たりにして、火力を重視するアメリカ軍の戦い方を十分に理解することになります。
その後、八原大佐は陸軍大学校の教官を務めます。
当時の陸軍大学校の教育は、銃剣突撃戦術が主流でした。
銃剣突撃により敵陣地を突破し、包囲殲滅するという戦術です。
ここで八原大佐は、学生たちに周到に戦力を積み重ねる戦術を教えていました。
歩兵・砲兵・戦車などの各戦力をうまく組み合わせて、総合的な戦力を発揮できるようにすることが大切だと考えていたのです。
まさに「兵の多少から事は始まる」です。
この戦い方は、米軍が沖縄戦をはじめとする島嶼部の戦いにおいて取った戦術とも重なっています。
このような八原大佐の戦術思想は、陸軍の多数派とは異なるものでした。
加えて八原大佐が、陸軍中央や陸軍大学校の教育に不満を持っていたことが陸軍大学校の首脳に知られるようになり、八原大佐は陸軍の中央から疎まれ、遠ざけられるようになっていきました。
米軍の生み出したイノベーション
陸海空共同の上陸作戦
1943年頃、米軍は、日本軍の防衛する島嶼部の攻略作戦において、「陸海空共同による上陸作戦」というイノベーションを生み出します。
それは、多数の空母、戦艦、巡洋艦、駆逐艦、輸送船、上陸用舟艇からなる、陸海空の総合戦力による立体的な戦闘システムでした。
太平洋に浮かぶ島を攻略する場合、敵側は島の全周にわたり強固な防衛陣地を構築している可能性があります。
敵側の虚を衝くというよりも、正面から大兵力を持って攻撃をかける必要があります。
そこで考案されたのが、この戦闘システムなのです。
この戦闘システムでは、空母機動部隊が目指す島に近づき、艦載機で日本軍の航空基地を爆撃し、航空反撃能力を失わせます。
ここで日本海軍の機動部隊が反撃してきた場合には、航空攻撃でこれを撃滅します。
つぎに、艦載機の爆撃、水上艦艇の砲撃で、日本軍の防御施設を徹底的に破壊して無力化します。
そして、水陸両用戦車の榴弾砲と重機関銃による援護を受けながら、上陸用装軌艇に乗った歩兵が上陸を敢行します。
歩兵は水陸両用車両と協力しながら、上陸地点を制圧し、後続部隊の上陸のための足場を確保するのです。
この戦闘システムにより、米軍は太平洋の島嶼部で戦いで次々と勝利を収めていきました。
水際撃滅作戦の失敗
この米軍の戦闘システムに対し、日本軍は「水際撃滅作戦」で対抗しました。
「水際撃滅作戦」とは、文字通り敵軍が上陸してくる水際に防御陣地を作り、敵軍が上陸を敢行してきたら、これを許さずその場で撃滅するというものです。
海岸沿いに敵軍の上陸部隊が見えたら、これを積極的に砲撃して迎え撃つという作戦なのですが、この作戦は敵軍を上回る戦力があればこそ成功するものです。
一時的には米軍の上陸用舟艇に損害を与えられたとしても、自軍の射撃地点も米軍側から丸見えになってしまいます。
日本軍の射撃地点さえ分かれば、米軍はそこに猛烈な航空爆撃・艦砲射撃を加えてすぐに沈黙させることが出来ます。
圧倒的な戦力を持つ米軍の前で射撃地点を晒すということは、自軍の陣地の壊滅を意味するのです。
この「水際撃滅作戦」に拘った結果、サイパンの防衛は失敗しました。
米軍の陸海空の総合戦力の前に、日本軍の水際防御陣地はすぐに壊滅してしまったのです。
陸海空共同による上陸作戦という米軍の生み出したイノベーションは、サイパン戦の頃にはより完成度を高めて、デファクト・スタンダードの域に達していたのです。
沖縄戦の戦術思想
「戦略持久」の方針
八原大佐は、1944年3月に沖縄防衛を担う第32軍の高級参謀(作戦担当)となります。
八原大佐はアメリカ軍の侵攻に備え準備を固めていましたが、フィリピン・レイテ島の戦いに伴い、1944年12月より防衛部隊の主力であった第9師団が台湾に引き抜かれることになり、第32軍は兵力の三分の一を失うことになります。
そこで、八原大佐は減少した第32軍の兵力で強大な戦力を持つアメリカ軍に対抗するため、「戦略持久」の方針を打ち出します。
米軍の部隊が侵攻してきても、むやみな銃剣突撃は行わず、陣地にこもって地道な持久戦を行うという作戦方針です。
沖縄本島の南半分は、普天間以南、全地域が隆起サンゴ礁になっています。
この地層は10メートルから20メートルの厚さがあり、鋼鉄のように固くなっています。
八原大佐は、ここに主陣地を設定することにしました。
ここなら、鉄材やセメントが無くても、爆弾や艦砲弾も跳ね返す強固な地下陣地が構築できたのです。
第32軍は地形に沿った洞窟陣地や砲床、塹壕を作り、そこに各種砲や機関銃を巧みに隠して配置しました。
それらは相互に支援できるように配置され、地下トンネルで接続されていました。
米軍の部隊が侵攻してきた場合には、日本軍陣地の直前まで誘導し、機関銃で掃射して敵の戦車と歩兵を分断し、対戦車砲や肉薄攻撃で戦車を撃破し、後続部隊を榴弾砲で叩くという戦術を取っていました。
敵味方がなるべく近い距離で戦うようにすれば、米軍は同士討ちを避けるために艦砲射撃や航空攻撃といった強力な武器が使えなくなります。
米軍の使える武器が限定され、日米双方の武器のレベルが互角に近づくため、日本軍にも米軍を撃退するチャンスが生まれるのです。
戦後、八原大佐は陸上自衛隊幹部学校での講和で、このような戦い方を「世界共通の戦術思想」と言っています。
それは、敵と味方の戦力を冷静に判断・評価し、敵の優位な要素をできるだけ減らし、反対に味方の優位な条件をできるだけ発揮できるような作戦を考えるということです。
八原大佐は、このように地道な持久戦を取ることで本土決戦のための時間を稼ぎ、さらに、米軍に犠牲を強いることで米国の世論を厭戦気分へと動かし、日本の立場を優位にするという考え方を持っていました。
八原大佐は、沖縄戦でも合理的な戦い方を貫こうとしていたのです。
後編では、実際の沖縄戦の推移を見ていきます。
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